木境大物忌神社(由利本荘市矢島町)概要: 木境の地は貞観12年(870)、醍醐寺(京都)の聖宝尊師(理源大師)が鳥海山修験矢島口を開いた以来修行の場として神聖視されてきた場所です。建長6年(1254)、改めて鳥海山の山頂に鎮座する大物忌神社の分霊を勧請し、境内に新山堂、本山堂、火宿が設けられ遥拝所として整備されました。古くから神仏混合していた為、神社と言っても本山堂には役行者木像、新山堂には大物忌神社の本地仏である薬師如来像が祀られ近世以前はもっぱら薬師堂、又は鳥海山が女人禁制で木境までは女性でも登拝出来た事から女人堂とも呼ばれました。矢島領内では鳥海山信仰が広く浸透していた為、木境大物忌神社が領内総鎮守的な意味合いが強く、歴代領主の崇敬の対象となりました。特に江戸時代は矢島藩主生駒氏の崇敬社(矢島修験の18坊の学頭である福王寺は生駒氏の祈願所)として庇護され社殿の修繕費用や祭祀料の寄進が行われています。
鳥海山開発経営は矢島口、小滝口、蕨岡口だった事からも矢島修験は鳥海山修験の中でも大きな影響力を持っていて、同じく大きな影響力のあった蕨岡修験とは度々争いに発展、元禄14年(1701)には山頂本社の建替え、元禄16年(1703)には山頂の境界線を廻り矢島藩、庄内藩を巻き込んでの争いとなり幕府の裁定を受けました(矢島藩は外様小藩だった故か?矢島側には不利の裁定が下され、鳥海山の7合目より高所は庄内藩領となり現在の秋田県と山形県の県境として踏襲しています)。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され新山堂、本山堂が一社にまとめられ「木境大物忌神社」に社号を改めました、現在の木境大物忌神社社殿は明治18年(1885)に再建されたもので、木造平屋建て、寄棟、茅葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り、由利本荘市指定文化財に指定され、境内一帯は大変貴重な事から平成21年(2009)に鳥海山修験の重要な遺構の1つとして国指定史跡に指定されています。又、現在でも神仏習合時代の修行や諸行事が数多く残され、中でも「虫除け祭り(虫除けの神事)」は山岳信仰と稲作習俗を知る上で貴重なものとして秋田県無形民俗文化財に指定されています。
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