(5) 陣屋
近世に入ると世情が安定してきます。又、江戸幕府の対大名政策などから「一国一城令」が発せられます。各藩は本城以外は全て城を破棄し、久保田藩などの大藩は例外的に認められた(横手城、大館城)ものの、その大部分は消滅しました。しかし、領国経営には、軍事、経済的拠点は必要で陣屋構えとして各地に配しました。久保田藩では半自営的な領地を認め「所預かり」と称し佐竹氏一族や有力家臣にその任にあたらせました。基本的に堀と土塁程度の構えで当然天守閣などの大きな建物も設けられませんでした。又、1万石以下は基本的に城持ち大名とは認められていませんでしたので、矢島藩(生駒氏は当時1万石で移封されて城主格でしたが8千石と2千石に分家した為、江戸詰め旗本となりました。その後戊辰戦争で官軍に付いた為、石高が加増され再度城持ち大名となった。)や仁賀保領(仁賀保氏は当時1万石で塩越に城を構えましたが7千石、2千石、1千石と分家した為、旗本となった。)などは陣屋構えとなっています。亀田藩は2万石ながら城持ち大名ではなく居館は城とは認められませんでした(嘉永5年に城主格と認められた)。
江戸時代における秋田領の家臣配置
1− 十二所 −南部領に接する為軍事上重要視された。塩谷氏→梅津氏→茂木氏
2− 大館 −領内北部の中心として重要視され支城が置かれた。赤坂氏→小場氏
3− 檜山 −中世、秋田氏の拠点の1つを受け継いだ。小場氏→多賀谷氏
4− 刈和野 −羽州街道の中間に位置し、亀田領とも接していた為、足軽を配置。
5− 角間川 −雄物川舟運の拠点として経済的にも重要視された。渋江氏
6− 角館 −中世、戸沢氏の拠点で南部領に近接していた。芦名氏→佐竹北家
7− 横手 −領内南部の中心として重要視され支城が置かれた。戸村氏など
8− 湯沢 −院内などの経済供給地、仙台領への押さえとされた。佐竹南家
9− 院内 −領内最南部に位置し軍事上重要視された。矢田野氏→大山氏
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