羽川新館(秋田市下浜)

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概要・歴史・観光・見所
羽川新館(秋田市下浜)概要: 羽川新館は中世、羽川一帯を支配した羽川小太郎義稙の居館跡です。羽川氏は由利十二頭の1人で名門の新田義貞の血筋と言われています。湊安東氏と関係を密にし湊合戦で勝利し、羽川氏は豊嶋城主となり名前も豊嶋と改称しています。現在、羽川新館は公園として整備されていますが、空堀、竪堀、土塁、郭の跡は比較的残っていて目視出来ます。近くには羽川氏縁の珠林寺や八幡神社などがあり当時を偲べる事が出来ます。

羽川氏については一次資料が極端に少なく詳細は不詳。そこで、軍記物に識別される「由利十二頭記」や「奥羽永慶軍記」に頼り、発刊された資料でもあたかも事実のように表現されている為、私達素人では判別する事が非常に困難な氏族です。

まず「由利十二頭記」も原本が無く複数ある写本の中でも羽川氏を由利十二頭に位置付けていないものもあり、由利十二頭の中では低く位置付けられていた事が窺えます。特に、由利郡の中では一番北側に位置している事で矢島氏と仁賀保氏との対立に直接関わる事が少なかった事や、多くの由利十二頭が小笠原系大井氏を祖に持つ同族とも思える由緒を持つのに対し、羽川氏は新田氏の家系を自称している事も作用しているのかも知れません。

羽川氏の入部については「由利十二頭記」を頼ると応永元年(1394)、又は応仁元年(1467)の2説が有力とされ、羽川氏の菩提寺と目されている珠林寺は明徳年間(1390〜1394)に「大仙院殿公帰眼橋大居士」が開基となっています(応永年間に兄である新田兵衛尉貞国は大正寺に入り大正寺氏を名乗り、弟である新田修理太夫義政が羽川に入り羽川氏を名乗ったという伝承があります)。羽川新館の城下町に鎮座している八幡神社は羽川氏の祈願所だったと伝わり、例祭に奉納される「羽川剣ばやし」も羽川氏の伝承が伝えられています。羽川氏が新田系源氏の血筋であれば氏神である八幡神を篤く信仰した事が窺えます。

羽川氏が一般的に云われている八幡神社(大仙市神宮寺)に奉納した願文を奉納した事や盗賊を繰り返した悪党だった事、豊島重氏を攻めて勝利した事、赤尾津九朗に唆され戸沢領に侵攻し大敗した事、赤尾津九朗に羽川新館を攻められ滅亡した事などは「奥羽永慶軍記」の内容を略踏襲したものですが、それらの事象を裏付けしている一時資料は無いように思います。又、赤尾津九郎は羽川新館を接収後、羽川主膳正九郎を名乗り仁賀保城の支城にしたとの記述もよく見ますが、仁賀保城は仁賀保氏の居城を指していると思われる為、これも誤記なのでは無いでしょうか。

豊島館の豊島重氏を攻めた当主も羽川義稙説と赤尾津治部少輔の弟である羽川新介説があり、羽川新介だとするとその後羽川新館を攻める必要性が無くなります。さらに豊島館の城主も豊島重氏では無く安東茂季の子供とされる安東通季(豊島通季)だった説もあり判別出来ません。防衛安東通季の後裔が所有していた「市川湊家文書」によると天正17年(1589)に豊島の城に住する九郎(安東通季)の家老が九郎を当主にする為に戸沢氏と画策し安東実季を攻めた事が記され、他の書状などかもこちらの方が説得力があります。

以上の事から察すると、羽川義稙が豊島館を攻めたのは元亀元年(1570)の第二次湊騒動でそこで豊島玄蕃・重氏父子を敗走させ豊島館の城主になったと思われます。これは豊島家の菩提寺である満蔵寺の由緒に天正年間(1573〜1592年)に畠山(豊島)家が滅びた為、羽川氏の菩提寺である珠林寺から體叟存辰和尚を招いて再興したとの記述に合致します(赤尾津系羽川氏であれば、赤尾津家の菩提寺である光禅寺、又は天福寺の住職を招くはず。第三次湊騒動後は、奥州仕置きが執行され領地が確定した為、羽川氏が豊島館の城主になった可能性は無い)。さらに、「小鴨家書状」より天正4年(1576)に安東愛季の家臣小鴨与三郎が奥村惣右衛門に対し豊島番を勤めた事を伝えている事から、天正4年(1576)以前に嫡流の羽川氏が滅亡したと推察されます。

そこで、信憑性にかけるものの軍記物で記されている「天正2年(1574)に大曲城の前田氏が羽川二郎を討ち取った」との記載が真実味を帯びます。ただし、物語上は跡を継いだ羽川金剛丸(義稙)が由利十二頭の力を借り父親の敵を討って天正10年(1582)に大曲城を落城させたとあります。しかし、天正10年(1582)は各書状から庄内の大宝寺義氏が由利郡に侵攻し由利新沢で小介川(赤尾津)・安東氏連合軍と交戦に及び大宝寺氏が敗北した事が史実として明確な為、由利十二頭が大挙して大曲城に侵攻する事は不可能と思われます。

結局、天正2年(1574)に羽川義稙に該当する人物が討死した事で羽川氏が急速に衰退し、天正3年(1575)又は天正4年(1576)に赤尾津九朗に該当する人物に羽川新館に攻められ嫡流羽川氏は没落したと推測されます。その後、赤尾津九朗が羽川主膳正九郎に名を変えた事で、領民達はあたかも赤尾津氏が謀略によって難なく羽川氏を乗っ取ったと思い込み百数十年後に「奥羽永慶軍記」の筆者戸部正直がそれを書き留めたのではないでしょうか?

羽川義稙についても「奥羽永慶軍記」では悪党や盗賊といった表現が成され、それを題材とした小説もありあたかも事実のように語っていますが、どこまで史実を現したものかは全く根拠がありません。一次資料も無く、唯一、満蔵寺の由緒から豊島館の城主が羽川氏だった事が推察される程度です。ただ、豊島館は豊島郡の中心を成す城で、後に羽州街道と呼ばれる出羽国の大動脈を眼下に治め、雄物川舟運や岩見川舟運を抑える上でも絶好の要衝で、さらに豊島館が突破されると安東氏の本拠である湊城には一騎に押し込まれる為、最終防衛ラインの役割を果たしています。石高的にも羽川新館から豊島館までの周辺を領地とすれば由利十二頭最大と言われる赤尾津氏に匹敵する事になります。豊島館に配される事は武勇に優れているだけでは無く、安東氏からも篤く信頼されている必要性がある為、悪党や盗賊では無く名将の類に入る人物だったと思われます。

羽川氏が没落した後、豊島館には小鴨氏が入り、常識的に考えて豊島玄蕃の復権は考えにくい為、天正7年(1579)に豊島(安東)通季が豊島館に入り、天正17年(1589)に発生した第三次湊騒動で赤尾津系羽川氏が豊島館の豊島(安東)通季を攻めたと考えればある程度辻褄が合います。

羽川新館:写真

羽川新館
[付近地図:秋田市下浜羽川]・[秋田市:下浜集落]
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