秋田藩:佐竹氏の崇敬社
〜 領内3国社・12社探訪 〜 |
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[ 上部写真:保呂羽山・波宇志別神社 ] |
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秋田藩主−佐竹氏 |
佐竹氏概要: 佐竹氏の始祖は源義家の実弟、新羅三郎義光と云われています。(※金沢八幡神社は源義家、義光が活躍した、後三年の役の激戦区の1つと言われる金沢柵に鎮座している為、特に崇敬が深かったそうです。)義光はその後、常陸国(茨城県)を治め以後佐竹氏が統治し清和源氏の祖となりました。初代秋田藩主佐竹義宣の父、義重の時代には戦国大名として確立し、義宣の時代には豊臣家の庇護もあり、54万石という当時の全国大名の石高では8番目の大大名へと成長していきました。関ヶ原の合戦では豊臣家や石田三成、上杉景勝などと親交が深かった為、中立を保ち、その罰として秋田藩21万石へ減封となり、その後は移転などなく佐竹氏12代(義宣から数えて)まで秋田藩を統治しました。佐竹氏は名門の割りには知名度が低いのですが、平安時代から第一線で活躍し江戸時代を乗り切った大名はほとんどなく極めて異例な存在と言えます。
豊臣政権下での佐竹氏の勢力: 当時の佐竹氏は周辺大名と姻戚関係を結び、それらを合わせると80万石とも100万石とも言われ、伊達氏や北条氏と拮抗する勢力を持っていました。豊臣政権下では五大老に次ぐ影響力を持つだけでなく、関東管領である上杉家と血縁関係があり、石田三成との友好関係は知られるところです。関ヶ原の戦い時には2万騎の兵力が動員することが出来たとされ、佐竹氏が完全に西軍側に付いていたならば、上杉氏と共に、結城秀康を破り西上することも、単独で江戸城攻略することも出来たと言われています。逆に東軍に付いた場合、戦後、他家の石高が倍増されたことを見ると、佐竹氏は150万石以上の影響力を持つ事になり、徳川家にとって最大の脅威になっていたかも知れません。
1 |
佐竹氏 |
・清和源氏を祖とする佐竹氏本家。 |
54万5千4百石 |
2 |
蘆名氏 |
・当初は奥州の有力大名。義重の次男義広を蘆名家当主とした。 |
5万石 |
3 |
岩城氏 |
・奥州藤原氏と関係が深い。義重の3男貞隆が家督を継いだ。 |
12万石 |
4 |
多賀谷氏 |
・桓武平氏を祖とする名門。義重の4男宣家を養子と迎え当主とした。 |
6万石 |
5 |
宇都宮氏 |
・義重の甥、国綱が当主となるが浅野長政の不快をかい改易される。 |
18万石(改易) |
6 |
相馬氏 |
・佐竹氏とは親戚関係。関ヶ原の戦い後一端改易されるが復権する。 |
6万石 |
秋田藩−佐竹氏系図:
義重−@義宣−A義隆−B義処−C義格−D義峰−E義真−F義明−G義敦−H義和−I義厚−J義睦−K義堯
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秋田藩(久保田藩) |
秋田藩(久保田藩)概要: 藩という名称は一般的に明治時代以降に使われた公称であり江戸時代にはほとんど使用されていませんでした。通常、秋田藩といった場合、秋田郡、河辺郡、山本郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡の秋田6郡の旧佐竹氏が領した場所を指し、江戸時代を通して佐竹氏が支配しました。佐竹氏は久保田城を本城に定め、横手城と大館城を各支城とし、十二所、檜山、刈和野、角館、湯沢、院内に「所預かり」と称し一族や有力家臣を配し、陣屋構えの屋敷を中心に城下町を形成し、いざという時の押さえとしました。又、新田開発だけでなく、院内銀山や阿仁鉱山など全国有数な鉱山の経営や日本3大美林と言われる秋田杉などの林業経営の産業にも力をいれ、現在の秋田県の姿が形付けられました。戊辰戦争の祭は逸早く奥羽越列藩同盟を脱退し、新政府側へ付いた為、東北諸藩から総攻撃を受け、多くの家屋が焼失し文化財なども失われました。
江戸時代における秋田領の家臣配置
1 |
十二所 |
・南部領に接する為、軍事上重要視された。 |
塩谷氏→梅津氏→茂木氏 |
2 |
大館 |
・領内北部の中心として重要視され支城が置かれた。 |
赤坂氏→小場氏(佐竹西家) |
3 |
檜山 |
・中世、秋田氏の拠点の1つを受け継いだ。 |
小場氏→多賀谷氏 |
4 |
刈和野 |
・亀田領とも接していた為、足軽が配置された。 |
渋江氏 |
5 |
角間川 |
・雄物川舟運の拠点として経済的にも重要視された。 |
梅津氏 |
6 |
角館 |
・中世、戸沢氏の拠点で南部領に近接していた。 |
芦名氏→佐竹北家 |
7 |
横手 |
・領内南部の中心として重要視され支城が置かれた。 |
伊達氏→須田氏→戸村氏 |
8 |
湯沢 |
・院内などの経済供給地、仙台領への押さえとされた。 |
佐竹南家 |
9 |
院内 |
・領内最南部に位置し軍事上重要視された。 |
矢田野氏→大山氏 |
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秋田藩(久保田藩)3国社・12社 |
秋田藩(久保田藩)3国社・12社概要: 文化というのは、なかなか難しいもので、ついつい文化財指定されるものだけが注目しがちだと思います。「たった1人の秋田まちづくり委員会」では文化財有る無しに関らず様々な角度から秋田を紹介していきます。今回は江戸時代、久保田藩(秋田藩)が定めた藩主佐竹氏の崇敬社「秋田藩12社・3国社(十二社・三国社)」を取り上げます。現在では関心が薄くなり参拝者が少なくなっている神社もあるようですが、江戸時代では藩(佐竹氏)から特に多数の寄進があり多くの人々の信仰の対象となった神社ばかりです。一般的に秋田藩3国社・12社は「秋田沿革史大成」、「秋田県史」、「秋田県神社神道史」に明記されていますが、双方の上げる神社には若干異なります。これは最初から原資料がなかったとされる為で、定められた時期にしても4代秋田藩主佐竹義格公が宝永3年(1706)に定めたとされる説と同正徳4年(1714)の説があります。3国社は共に波宇志別神社、塩湯彦神社、副川神社で延喜制式内社に指定されている古社です。3国社を決める為、連綿と続く波宇志別神社以外の2社は再興し、副川神社は比定地だと云われる神宮寺岳から、久保田城の鬼門に当る高岳山に移されたとされます(※秋田市添川という説もある)。
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一覧表 |
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秋田沿革史大成 |
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秋田県史 |
備 考 |
1 |
男鹿:真山 |
1 |
男鹿:真山・本山 |
現、真山神社:五社堂-市指定文化財 |
2 |
男鹿:本山 |
- |
- |
現、赤神神社:五社堂-国重要文化財 |
3 |
寺内:古四王神社 |
2 |
寺内:古四王神社 |
現、国幣小社 |
4 |
三輪:杉の宮神社 |
3 |
三輪:杉の宮神社 |
現、三輪神社:本殿-国重要文化財 |
5 |
院内:愛宕神社 |
4 |
院内:愛宕神社 |
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6 |
天王:牛頭天王社 |
5 |
天王:牛頭天王社 |
現、東湖八坂神社:例祭-国無形民俗文化財 |
7 |
仁別:藤倉権現 |
6 |
仁別:藤倉権現 |
現、藤倉神社 |
8 |
六郷:熊野神社 |
7 |
六郷:熊野神社 |
歌垣−日本最古の歌謡 |
9 |
保呂羽山:波宇志別神社 |
8 |
保呂羽山:波宇志別神社 |
神楽殿-国重要文化財:仁王門-市指定文化財 |
10 |
天王:天神社 |
9 |
天王:天神社 |
現、北野神社:本殿−市指定文化財 |
11 |
広面:若宮八幡 |
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12 |
金沢:八幡神社 |
10 |
金沢:八幡神社 |
金沢柵跡地 |
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11 |
御岳山:塩湯彦神社 |
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12 |
高岳山:副川神社 |
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その他3国社・12社関係の神社 |
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神 社 名
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謂 れ
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1 |
明永:熊野神社 |
塩湯彦神社の里宮とされていた。 |
2 |
祖野々:塩湯彦鶴ヶ池神社 |
昭和12(1937)年に塩湯彦神社の遥拝所として建立。 |
3 |
神宮寺:嶽六所神社 |
副川神社古社地とされる。 |
4 |
神宮寺:八幡神社 |
嶽六所神社(副川神社)の里宮とされる。 |
5 |
添川:添川神明社 |
志賀剛氏説では添川神明社が副川神社とされる。 |
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その他の崇敬社 |
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神 社 名
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謂 れ
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1 |
横手市大沢:旭岡山神社 |
正保4年、2代藩主佐竹義隆より社領5石寄進する。 |
2 |
美郷町六郷:秋田諏訪宮 |
佐竹義重より社領2000刈、慶長9年修復。 |
3 |
仙北市西木町:御座石神社 |
文化8年9代藩主佐竹義和が社殿建立。 |
4 |
湯沢市相川:東鳥海神社 |
慶長7年以来、雄勝、平鹿両郡を氏子にするお墨付きを得る。 |
5 |
大仙市境:唐松神社 |
元禄年間に3代藩主佐竹義処が奥殿を奉遷。 |
6 |
大仙市大曲:諏訪神社 |
天保14年に藩主から懸学額、燈籠木の寄進。 |
7 |
大仙市新谷地:白山神社 |
寛永6年に初代藩主佐竹義宣が社領を寄進。 |
8 |
美郷町千屋:勝手神社 |
慶長13年に初代藩主佐竹義宣が社殿を修復。 |
9 |
湯沢市院内:金山神社 |
金燈籠・書画など多数寄進。 |
10 | 大仙市南外:勝軍山神社 |
正徳4年に3代藩主佐竹義処公が社殿を再建 |
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