秋田県・信仰の山概要: 秋田県内には自然崇拝が未だに色濃く残っています。山や川、滝、大樹、巨岩など数多くあり、そこに自然に対しての畏敬の念を込めて祠や注連縄などを設えたりしています。信仰とは単に政治的な背景だけで無く極自然な気持ちで行われていたのではないでしょうか?ここで取り上げる信仰の山々は、基本的に民間信仰や修験僧が崇拝した低山とします。どのような場所が神聖視されたのか感じることが出来れば良いと思っています。
民俗的山岳信仰: 秋田県は農業や林業、鉱山などが盛んな地域です。その源といっていいのが「山岳」です。その為、山は農業で必要な水を生み出す「山の神」として信仰の対象になり、冬、水(雪)を溜め込んだ「山の神」が春になると里へ下りてきて「田の神」になるといった自然現象と神様を重ねあわせた民俗信仰が発達しました。その為、地域ごとに神の山があり、そこに住んでいる人達の信仰の対象となりました。又、地域の信仰の対象の山には先祖の霊が宿ったり、死んだ人が一端この山に行ってから天に召されるといった信仰も生まれたり、そこに生える草木の成長や太陽や月の出入りで暦を作ったりして、そこに住む人達にとっては生活の一部になっていきました。当然、高く秀麗な山ほど信仰の対象になりましたが、低い山(標高200〜300m程度)でも水源があり、自分達の住んでいる所が見渡せる程度のであれば十分信仰の対象になりました。又、巨岩や奇岩、巨木、滝などがあれば神が宿る山とされ祠や注連縄など張り神聖視され、鳥海山の火山などの自然現象も神の啓示と捉えられていました。
政策的山岳信仰: 秋田県は平安時代初頭まで蝦夷などと呼ばれ、独自の文化を築いていました。当然、自然崇拝を中心とする自分達の信仰対象物があったと思われますが、時の権力者達は、自分達の崇拝する神を摩り替える事で、文化的にも支配しようとしました。そこで、国幣社を全国的に配置させる政策を押し進め、秋田県では旧平鹿郡の保呂羽山に波宇志別神社、御岳山に塩湯彦神社、旧山本郡(仙北郡)の副川岳(神宮寺岳)に副川神社を建立し、信仰の対象としました。これらの神社は中世、密教と混合し一端は荒廃しますが、江戸時代に入ると藩主の佐竹公の意向により、「領内三国社」として再興し、佐竹公の崇敬社として庇護されます。
密教的山岳信仰: 平安時代後期になると秋田県内にも様々な宗教が入り込んできます。その内の1つに天台宗がありました。天台宗は密教系の宗教で修験道を主とし山岳での修業を行う事が日常化していました。修験者達はその土地土地の霊山や名山に入り込み修行を重ね、その範囲を広げ、男鹿修験や鳥海山、太平山、森吉山、五ノ宮嶽、神室山などはその対象となりました。修験者達が山に入り込む事で様々な人々と交わり、地元の神々と密教とが混合し、又、中央からもたらした文化を浸透させていきました。
境としての信仰: 秋田県内の集落境には人形道祖神が置かれているように、境は一般領域とは異なる特異点として信仰の対象となていました。高岳山は秋田郡と山本郡の郡境だけでなく、古来では蝦夷との国境ラインとして神聖視されました。鳥海山はその頂上を巡り、酒井藩と矢島藩で熾烈な争いを繰り広げ、保呂羽山は久保田藩と亀田藩の藩境で様々な逸話が残り境界塚が建てられました。鹿角郡との境の茂谷山は八郎太郎がこれを切り崩し、鹿角郡を水没させようとした伝説が残っています。
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