建築力士像の発生起源
当初、秋田県内中心に調査をしていた為、建築力士像は主に神社を守るもので、幕末〜明治にかけての大工や彫刻の技術が最も高い時期に造られるものと思っていました。しかし、調査を進める内にどうも考え方を改めた方が良いようです。それは次に上げる2つの理由からです。
(1)法隆寺五重塔や唐招提寺金堂といった古建築にすでに「邪鬼」が存在する。
(2)上記を含め西日本では寺に多く「邪鬼」が見られる。
 法隆寺「邪鬼」 |
 唐招提寺「邪鬼」
|
このことから建築力士像(邪鬼)は古来中国の思想や建築様式が入ってきた600〜700年頃に同じように伝えられたと考えられます。西日本ではこの邪鬼の概念がそのままの形で土着していたことが推測されます。ただ邪鬼とはあくまで仏教用語な為、神社建築に対して概念は同じでも名称が力士像となり、東日本では寺、神社共に力士像として定着していったのではないでしょうか?
何故「邪鬼」なのか?
では何故「邪鬼」が屋根を支えているのでしょう?実は「邪鬼」は悪さや人と異なる事をする代名詞とされ、四天王(持国天-東方を守護・増長天-南方を守護・広目天-西方を守護・多聞天-北方を守護)に常に踏みつけられています(四天王参考リンク)。屋根を四方から守護するという事であれば、屋根の隅木が四天王に例えられると思います。そう考えると「邪鬼」は屋根を支えているのではなく、隅木(四天王)によって押さえ込まれていると言った方が正確なのかも知れません。「邪鬼」を掘り込む事で逆に四天王が建物を守っていると表現していたのではないでしょうか?
何故「力士」なのか?
では何故「力士」が屋根を支えているのでしょう?ご存知のように、相撲は神事であり、奉納相撲はいまだに各地に残っています。現在は行われなっか神社にも境内に土俵の跡があったりします。古代には占いなどにもなっていたらしく、古墳から力士を模った埴輪も出土したいます。特に力士が四股を踏む事は土地の霊を鎮めることに通じ地鎮を意味します。又、土俵の上部に屋根が掛かっているのを良く見かけると思うのですが、四隅にぶら下がっている房はそれぞれ色が異なり四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)を表しています。力士が屋根を支える事は土地を鎮めることを意味するだけでなく、それを模ることで四神が建物を守っていると表現していたのではないでしょうか?
|