瑞光寺(由利本荘市町村)

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概要・歴史・観光・見所
瑞光寺(由利本荘市町村)概要: 瑞光寺の創建は不詳ですが古くは、由利三ヵ寺と称される程の古刹でした。伝承によると奈良時代の天平5年(733)に唐の第3代皇帝高宗に嫁いだ藤原鎌足の娘から三種の宝を授かった万箇将軍は帰国の際、暴風雨により遭難し由利海岸に漂着しました。万箇将軍は三種の宝の導きにより瑞光寺に辿り着き、住職に事の経緯を話し、三種の宝を朝廷に届けてほしいと懇願すると力尽き、哀れと思った住職は境内に篤く弔ったと伝えられています。高宗の在位は649〜683年の為に伝承とは年代が異なり、同じような内容が香川県さぬき市の志度寺に「海女の玉取り伝説」として伝えられています。「海女の玉取り伝説」は能の「海士」の題材にもなっている事から室町時代には広く知られた伝承で、瑞光寺も影響を受けた可能性があります。万箇将軍については不詳で、基本的には瑞光寺に伝わる伝承以外に見る事は出来ません。

時代が下がった大同年代(806〜809年)に真言宗の開祖である弘法大師空海、嘉祥年間(848〜851年)には天台宗の高僧で東北、関東地方に多くの寺院を創建したとされる慈覚大師円仁が訪れ自ら地蔵菩薩像と布袋尊像を彫刻し安置したと伝えられています。鎌倉時代末期頃に鳥海弥三郎と由利仲八郎との兵火に巻き込まれ堂宇、記録、寺宝などが焼失し荒廃しています。この合戦は江戸時代に編纂された「由利十二頭記」や「奥羽永慶軍記」に記されているものですが、両書とも300年以上後に筆され、さらに一般的に資料価値が薄いとされる「軍記物」の為、どの程度事実を反映してるのかは不詳です。

「秋田のお寺」によると応永元年(1394)頃に蒲田館の主と思われる鮎川氏の祈願所になったとありますが、軍記物である「由利十二頭記」を信用すれば鮎川氏を含む由利十二頭が由利郡に入封したのが応永元年(1394)、又は応仁元年(1467)とある為、瑞光寺は応永元年(1394)説に影響を受けたようです。又、蒲田館は戦国時代末期の天正元年(1573)に鮎川氏に従った淵名豊前守が築いたとされる為、こちらの方も不確実となっています。

応仁元年(1467)又は明応元年(1492)に大乗寺(石川県金沢市)の高僧明峰素哲が曹洞宗の改宗開山、明峰素哲は建治3年(1277)〜観応元年/正平5年(1350)の人物の為に勧請開山だった事が判ります。天正4年(1576)に蒲田館の淵名豊前守親友が中興、瑞光寺2世には大乗寺14世の虎室春策、3世には竹翁益が位置付けられています。当時は織田家により加賀侵攻が行われ大乗寺も大きく混乱していた時期だった事から持住だった虎室春策が加賀から離れる事は考えられない事から竹翁益が実質の開創者で、師である虎室春策を中興開山として勧請したと思われます。これらから察すると、瑞光寺はかなり古くから存在していたものの、中世の戦乱などで荒廃した為に記録も由緒も失い、戦国時代末期に蒲田館の館主となった淵名豊前守親友が曹洞宗の竹翁益を招いて中興し、改めて上記のような由緒が作成されたと推察されます。

正面には鐘楼門があり、上部が鐘付き堂で、下部が門の機能を果たしています。基礎の構造から後年に建てられたものと思いますが、デザインもユニークで全体的は外壁が板張りの竜宮門形式を採用し、2階の明り取りと下部の門部分は花頭窓風に統一されています。境内には「万箇将軍の墓」もあり歴史を語っています。本荘領内三十三観音第7番札所。山号:慈雲山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

瑞光寺:写真

瑞光寺
[付近地図:由利本荘市町村]
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