満蔵寺(秋田市河辺戸島)概要: 満蔵寺は中世、当地を支配した豊島氏の菩提寺でした。豊島氏は鎌倉時代初代将軍源頼朝の家臣である畠山重忠の後裔と伝わる氏族で、記録がない為主流では無かったようですが常陸国に根を下ろし室町時代後期の永正3年(1506)に豊島玄蕃頭が一族郎党を引き連れ豊島郷に入ったようです(武蔵国や飛騨国出身という説もあります)。満蔵寺が創建されたのは天文3年(1534)の事で、当時の豊島氏は雄物川舟運の権益を背景に周辺大名も無視出来ない存在になりつつありました。跡を継いだ豊島重村の代に最盛期を迎え由利十二頭の筆頭格である仁賀保氏と縁戚関係を結び、周辺土豪を平定し河辺郡を席巻しましたが、元亀元年(1570)に出羽国北部最大の大名である安東氏との戦い敗れ仁賀保氏を頼り落ち延びていきました。その後、復権したものの最盛期の勢力には及ばず天正年間(1573〜1592年)に羽川氏、赤尾津氏連合軍に攻められ没落しています(※豊島玄蕃頭の事績に際しては軍記物である奥羽永慶軍記を参考にしている為、正確かどうかは不詳)。庇護者を失った満蔵寺も衰微したようですが、新たに領主となった羽川氏は下浜の羽川新館から戸島に移り、菩提寺だった珠林寺から體叟存辰和尚を招いて再興しています。
その後、羽根川氏も赤尾津氏に攻められ没落、豊島館も廃城になった為、満蔵寺沢に境内を構えていた満蔵寺も再び衰微したと思われます。江戸時代に入り羽州街道が開削されると戸島が宿場町として改めて町割りされ、それに伴い慶長12年(1607)に現在地に遷され再興しています。江戸時代末期になると近くの椿台に秋田新田藩(藩庁:椿台城)が立藩し、満蔵寺は藩主の佐竹義ェ公の菩提所となりました(現在も霊廟があります)。現在の本堂は江戸時代中期の宝暦10年(1760)に造営されたもので、木造平屋建て、寄棟(玄関屋根は唐破風)、銅板葺き、平入、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。山門は江戸時代末期の安政2年(1855)に造営されたもので、入母屋、銅板葺き、一間一戸、四脚楼門、上層部には花頭窓、高欄付き。本堂と山門は文化財指定はされていないものの貴重なものだと思います。山号:龍澤山。宗派:曹洞宗。本尊:聖観世音菩薩。
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