由利本荘市:大水口集落

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概要・歴史・観光・見所
由利本荘市大水口集落概要: 前郷から矢島街道沿いに進むと大水口集落に着きます。大水口集落は矢島街道と玉米街道(旧東由利町:矢島藩領)との追分でした。その為本荘藩はこの地を重要視し、玉米街道が開通に合わせ大水口番所を設置しました。現在は国道や鉄道などの主要幹線から離れ、前郷とも隣接している為、商業的な発展は無かったように感じます。静かな風景が広がり1部農地の中に旧矢島街道が残っています。

大水口集落:町並み・写真

大水口集落
本荘 薬師堂 宮内 黒沢 前郷 大水口 山本 吉沢 小板戸 矢島
大水口番所
 大水口番所案内板によると「江戸時代、通行人の取締り、徴税の業務を行う役所として、藩境や交通の要所に番所は設置された。本荘藩においても番所を設置しており、由利町内には3カ所の番所跡がある。(黒沢・大水口・吉沢)。ここ大水口は、当時明法から舟渡しで前郷に入り、大水口から五十土、小菅野を通過して吉沢に至る、矢島街道筋であるため、矢島藩と本荘藩を結ぶ往来の道としてにぎわった。また、歌人であり医学者でもある菅江真澄が旅した道も、この矢島街道である。その後天保年間(1830〜1843年)になると、矢島藩領の玉米郷、下村郷(元東由利町)から大水口(矢島街道)に至る玉米街道が開け(金山、中沢経由、あるいは黒潟、ツナギ沢経由)、前郷山王町にあった数棟の矢島蔵に、玉米方面からの貢米が搬入されるようになった。貢米はさらに、前郷舟着き場から舟で本荘古雪の現善応寺北側にあったとされる矢島藩蔵に輸送されていた。大水口はこのように、矢島街道と玉米街道との分岐点にあたる重要な場所となるため、本荘藩は、玉米街道開設に先立って文政5(1822)年、ここ大水口に番所を設置した。この番所は明治3(1870)年5月18日に明治政府により廃止されるまで、48年間その業務を果たしていた。任命された役人は代官クラスの中級武士であり、任期は3年であった。番所設置期間中派遣された役人は、延べ19人で、再任されたり、親子で任命される場合もあった。」とあります。
大山祗神社
 大山祗神社大山祗神社は大水口集落の山の中腹に鎮座します。案内板がなく由来や歴史等は分かりませんでした。神社の名称から祭神は大山積命と推測出来ます。大山積命は別称で大水上大明神とも言い、水神様です。この事は集落名とも酷似しています。又、大山祗神社が鎮座する山の尾根が大水口番所付近まで延びていて、そこが分水嶺のようになっている事からも水に対して関係が深い土地柄なのが分かります。現在の社殿はあまり古ささは感じず、朱色の鳥居だけが異彩を放っています。
庚申塔
 庚申塔 庚申塔は大水口集落から玉米街道沿いに進み又右ェ門橋の手前左側の木の根元にあります。道路の三又にあり3つの石塔があります。2つが庚申塔でもう一体はよく分かりませんでした。もしかしたら道しるべのなのかも知れません。この様な場合岩城亀田藩ではお地蔵様が主に配置されていましたが本荘藩内では庚申塔も見られます。ちょっとした事で地域差が出るものです。自分達が住んでいる場所性を丁寧に調べる事で、地域の独自性が見えてくるかも知れません。
旧矢島街道
 旧矢島街道大水口集落の坂を下がると右側の田んぼの中に旧矢島街道の標識が立ち、当時と同じと思われる1.8〜2.0m程度の細道が30m程残っていて史跡保存となっています。標識に隣接して3体の地蔵が掘りこまれた石碑が2個安置されています。地蔵が3体ということで、道祖神と同等とされる青面金剛に踏まれている3猿を彷彿でき、道祖信仰と地蔵信仰が混ざり合っていると考えられます。当時の旅人は道中安全を祈願しここで手を合わせていたのかも知れません。


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