田村神社(横手市大雄)

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概要・歴史・観光・見所
田村神社(横手市大雄)概要: 横手市大雄新町にある田村神社は案内板によると「本社は住古、桓武帝の時代(平安期初期)坂上田村麻呂(758〜811)は調停の命により征夷大将軍として、東夷征伐のみぎり、当地に滞留し、夷敵退散、良民守護を祈願し大同2年(807)7間4面の毘沙門堂を建立したのが始まりとされている。祭神が北方の守護神である毘沙門天(別名多聞天)であることから、毘沙門堂、又は多聞天と呼ばれ、近在の人々をはじめ広く信仰を集めたという。・・・(後略)」とあります。

田村神社はその後廃れたてそうですが慶長年間(1596〜1615年)に柴田監物茂高が3間4面の毘沙門堂を再建し、坂上田村麻呂の御霊が勧請合祀しました。柴田茂高は元々最上家の家臣的立場の人物でしたが、江戸時代に入ると帰農し慶長8年(1603)に当地に土着し田村郷の開発に尽力したと伝えられている事から田村神社を産土神として整備したと思われます。

現在の田村神社社殿は江戸時代後期の天保3年に(1832)に改築されたもので拝殿は宝形造り、銅板葺、正面軒唐破風、桁行3間、梁間3間、正面1間軒唐破風向拝付。本殿は一間社流造、銅板葺、外壁は土蔵造り白漆喰仕上げ、基礎は石積み。社殿自体はさほど大きなものではありませんが、重厚な趣でかなりの存在感があります。屋根隅木には3体の力士像が鎮座しています。このような形式では通常4体の力士像がいるのですが、どうやら朽ちてしまったようです。力士像の年代はあくまでも推測ですが天保3年に(1832)に社殿改築とあるのですが、力士像の表情からすると慶長年間(1596〜1615年)のものかもしれません。周囲の神社などをみても丸みがなく角ばったデザインなのが特徴といえます。

田村神社は当初、神仏習合し毘沙門天像が本地仏として祭られ毘沙門堂や将軍山などと呼ばれきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が廃され、改めて経津主命を勧請して社号を「経津主神社」に改め、明治6年(1873)に村社に列しています(現在の社号である「田村神社」は明治22年:1889年に改称)。祭神:経津主命、稲倉魂命、坂上田村麻呂命。

田村神社:写真

田村神社
[付近地図:横手市大雄新町]・[横手市:田村集落]
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