城下町概要: 城下町の特徴は城を中心に武家町、その外側に商人町を配しているのが一般的です。久保田城下や横手城下はその典型的で川を外堀に見立て内町と外町を明確に分けています。又、寺町や枡形や鉤型の通りなど防衛的な工夫も随所で見られたり、風水思想などが垣間見られる場面もあり見所の多い町と言えます。秋田県内では久保田城を始め、支城が認められた横手城や大館城があり、「所預り」と称し、十二所、檜山、刈和野、角間川、角館、湯沢、院内の各重要拠点には佐竹氏一族や有力家臣が小城下町を形成し防衛と統治を行いました。又、本荘藩2万石や亀田藩2万石、矢島藩1万石でもそれぞれ城下町を形成し、仁賀保領3千石でも平沢に陣屋を構え、家老を始め数人の家臣が住んでいたようです。鹿角領では南部藩が久保田藩、津軽藩対策に要地である、毛馬内、花輪にそれぞれに「要害屋敷」と称した代官屋敷を構え城下町を建設しました。
城下町の特徴1−武家町
城下町の仲で武家町は城郭の近辺や防衛的要所に配置されました。又、武家町では間口が広く屋敷前面には庭があり、多くは木板塀や生垣などで敷地が区切られています。当時は身分によってそれらも形式化されており、長屋門や薬医門などは身分が高く、身分が低い足軽などは生垣などで周囲をまわしていました。屋敷を構えている場所も城に近い所に身分が高い者が配していて、大館城下などでは、旧浅利氏家臣は城下の一番の外側の独鈷町にまとめられていました。例外的に久保田城下では防衛の拠点に一族の屋敷を置いた例もあります。
城下町の特徴2−商人町
城下町で商人町は城郭から比較的離れていた場所に配置され、主に街道沿いに発展しました。多少大きな城下町になると基盤の目のように計画され、武家町とは区分けされ、夜間などは出入り口の木戸が閉められ相互の行き来が困難となりました。商人町は武家町と対称的に密度がある町並みが続きます。これは、当時の税金は敷地の道路に対する間口に課せられていた為で正面間口に比べ、奥行きが長い事が大きな特徴となっています。その為、敷地間口一杯に店を広げる事が有利と成る為、隣の店とほぼ密接するような形式を取っています。角地は店が2方向に設けられる為より有利な場所で欲に言う豪商はこの地を有効に利用しています。当所の計画図を見ると敷地間口はほぼ均一していたようですが時代が下ることで土地が買収され、豪商の屋敷の間口はより広く武家町で見られるような門や庭などを持つものもあらわれました。
城下町の特徴3−寺町
寺町は城下町の中で戦略的に重要な方向や地形的な問題で城郭的にどうしても補えない場所には寺院を集め寺町とし、いざという時の防衛ラインとなりました。寺院の敷地が広い為、陣を張り易く、墓石などを積み上げれば簡易な砦が早急に出来上がるといった事で近世の城下町の多くが採用され、現在でも久保田城の城下町を初め、本荘や大館、角館や宿場町ではありますが、江戸時代、佐竹義重によって町割りされた六郷なども当時の様子を窺うことができます。
城下町の特徴4−防衛的工夫
近世の城下町には掘りや石垣などの他、町全体で防衛的な役割を呈していました。戦国期に見られる山城では要害の地で川や崖などを巧みに利用したものが多かったのですが、近世になると、領国統治の為、平城や平山城など平地に近く防衛面よりも経済などの交通の要所に築城されました。特に武家町では見通しの悪い枡形や鉤型、T字路などの通りを多く配する事で直接城まで敵が攻め込まれないような計画がなされました。商人町では経済的な理由から、通りのよい町割りとして武家町には川や掘り、木戸などで直接入れないような工夫が見られます。
城下町の特徴5−風水思想的工夫
城下町建設に際し風水思想が強く反映されていると言われています。特に丑寅方向は鬼門とされ、城からみて北東方向には寺院や神社などを配し、霊的にも強い城下町としました。当時は疫病や流行病などは目に見えない悪霊の仕業とされ、丑寅方向から入り込むと信じられてきました。久保田城では五庵山(熊野神社)がそれにあたり、大館城では八幡神社、湯沢城(陣屋)では御嶽山(御嶽神社)、檜山城では母体神社が鬼門除けとされました。又、風水思想とは若干異なりますが、本荘城では城下町に入る街道入り口に六箇所全てに、一体づづ地蔵を配置して六地蔵とし結界を張っていたとされます。
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