建築力士像の建物における配置と地域性の考察
(1) 細身人型集計
(1) 南部沿岸− 1箇所 − 1/14*100= 7.14%
(2) 南部山間− 3箇所 − 3/14*100=21.43%
(3) 中央沿岸− 9箇所 − 9/14*100=64.28%
(4) 中央山間− 1箇所 − 1/14*100= 7.14%
(5) 北部沿岸− 0箇所 − 0/14*100= 0. %
(6) 北部山間− 0箇所 − 0/14*100= 0. %
調査総数−44箇所 細身人型総数−14箇所 14/44*100=31.82%
細身人型集計結果より考察
以上の結果より細身人型は全体の31.82%を占める力士像の1つのスタイルといっていいと思います。その中でも中央沿岸地域が64.28%と地域差がはっきと読み取れます。南部沿岸の玉ノ池八幡神社は中央沿岸地域から移設されたと言われ、中央山間にある薬師神社は大仙市の中でも秋田市よりに位置します。細身の力士像がこの地域では認識され1つの文化圏を築いてと考えられます。
(2) 太身人型集計
(1) 南部沿岸− 7箇所 − 6/9*100= 66.67%
(2) 南部山間− 0箇所 − 0/9*100= 0. %
(3) 中央沿岸− 1箇所 − 1/9*100= 11.11%
(4) 中央山間− 1箇所 − 1/9*100= 11.11%
(5) 北部沿岸− 0箇所 − 0/9*100= 0. %
(6) 北部山間− 0箇所 − 0/9*100= 0. %
調査総数−44箇所 太身人型総数−9箇所 9/44*100=20.45%
太身人型集計結果より考察
以上の結果より太身人型は全体の20.45%を占めひとつのスタイルとして確立しているといえます。中でも南部沿岸地域が66.67%を占めて、この地域の独自性が窺えます。南部山間地域に見られるような鬼神の面容ではなくあくまで人間に近い形を取り太くたくましい姿を表現しています。力士像の配置の項でも述べましたが、当時の六郷藩、亀田藩、矢島藩などと秋田藩(久保田藩)との建築文化に差異を感じます。この地域では鬼神が社寺を守るのではなく力士自体を神格化しているのではないでしょうか?
(3) 太身鬼神型集計
(1) 南部沿岸− 0箇所 − 0/16*100= 0. %
(2) 南部山間−15箇所 − 15/16*100=93.75%
(3) 中央沿岸− 0箇所 − 0/16*100= 0. %
(4) 中央山間− 1箇所 − 1/16*100= 6.25%
(5) 北部沿岸− 0箇所 − 0/16*100= 0. %
(6) 北部山間− 0箇所 − 0/16*100= 0. %
調査総数−44箇所 太身鬼神型総数−16箇所 16/44*100= 36.36%
太身鬼神型集計結果より考察
以上の結果より太身鬼神型は全体の36.36%を占め力士像の中では一番多いスタイルと言えます。このスタイルは南部山間地域に93.75%で残りの中央山間地域の力士像も隣接する美郷町にあることからこの地域一帯が太身鬼神型の文化圏と言えます。力士像の配置からも考慮すると神社の屋根の4隅には四方を守る神の使い(人ではない何か)が鎮座しすることが、神社建築として1つの形式が確立していたものと考えられます。
(4) ユニーク型集計
(1) 南部沿岸− 0箇所 − 0/3*100= 0. %
(2) 南部山間− 0箇所 − 0/3*100= 0. %
(3) 中央沿岸− 0箇所 − 0/3*100= 0. %
(4) 中央山間− 3箇所 − 3/3*100=100.0%
(5) 北部沿岸− 0箇所 − 0/3*100= 0. %
(6) 北部山間− 0箇所 − 0/3*100= 0. %
調査総数−44箇所 ユニーク型総数−3箇所 3/44*100= 6.82%
ユニーク型集計結果より考察
力士像の配置の項とも同様ですが、この地域の力士像はその容姿や配置が独特で1つの文化圏を築いていた可能性があります。サンプル数が少ない為、今回の結果では地域性などをはっきりと読み取ることが出来ませがわかり次第書き込めるかと思います。ただし調査方法に限界がある為お約束は出来ませんが・・。
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