石沢館(由利本荘市舘)概要: 石沢館は中世、由利地方を治めていた由利十二頭のひとり石沢氏の居城でした。詳しい事は良く分かりませんでしたが回りの様子からは平城と思われます。近くには子吉川もあり堀として利用したのではないかと思います。現在、館跡には 石沢氏が城内に建立したという天満宮の傍らに植えられた「いちょう」の木が存在し、樹齢が約400年、樹高18m、幹回り5.8mで由利本荘市内で3番目の天然記念物として文化財に指定されています。
石沢氏も他の由利十二頭と同様に正確な出自は不詳で、一般的な解釈としては信濃国出身の小笠原家や大井家の一族と目されています。由利郡の入部時期も諸説ありますが、軍記物の「由利十二頭記」を頼れば応永元年(1394)や応仁元年(1467)という事になります。石沢氏の菩提寺とされる大蔵寺は応永元年(1394)に石沢孫四郎が開基となり創建したとの由緒を持ち、石沢館に程近い神明社(八幡宮)は応永元年(1394)に住民達が石沢郷の総鎮守として宮殿を再建したとの伝承が伝えられています。その後は戦国時代末期まで一次資料が無く不詳、軍記物から察すると隣接する下村氏とは対立関係で、滝沢氏とは友好関係だったようです。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きでは石沢二郎が398石が安堵され形式的には独立の領主として認められたようです。ただし、仮にも由利十二頭の一角を占めていた石沢氏が中級武士程度の石高だったとは考えづらく、家臣団が解体され、領地は居館である石沢館周辺の村に限定された印象を受けます。結果的に由利五人衆と呼ばれる仁賀保氏、赤尾津氏(小介川氏)、滝沢氏、打越氏、岩屋氏に集約され、未確定ながら石沢氏は関係が深かったと思われる滝沢氏の与力的な立場になったようです。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでの行動も判りませんが、結果的に最上家の家臣として200石が安堵されている為、最上家方として行動したと推察されます。元和8年(1622)に御家騒動により最上家が改易になると石沢家も当地を離れ石沢館も破棄されたようです。
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