稲庭城(湯沢市)概要: 案内板によると「稲庭城(鶴ヶ城、早坂館)は鎌倉時代の初期から約400年の間県南の雄、小野寺氏の居城であった所でこの碑はよくその由来を伝えている。二の丸(下館)まで遊歩道が完成したので登る事が出来る。尚2の丸跡には今昔館や古碑、夫婦松があり眺望も素晴らしい。」とあります。
稲庭城の正確な築城年は判りませんが、文治5年(1189)に発生した奥州合戦に従軍し功を挙げた小野寺道綱がその恩賞により出羽国雄勝郡の地頭職を賜った事が起因になったと思われます。当時の一般的な領土経営は当主が直接領地で采配するのでは無く、一族や家臣等が地頭代として派遣され例が多く、雄勝郡には道綱の子供である小野寺重道が入部し建久4年(1193)頃に稲庭城を築城したという説があります(重道は道綱の嫡男とも4男とも庶子とも云われています)。一方、建久年間(1249〜1256年)頃に重道の孫にあたる小野寺経道が入部し稲庭城を築城したとの説もあり意見が分かれるところです。さらに、重道と経道は直系の血縁では無く、別系統だったとの説もあります。
時代が下がると、小野寺氏は稲庭城を本拠に隣接する平鹿郡、山本郡(現在の仙北郡)まで版図を広げ本領の雄勝郡を含めて3郡の領主となった為、当時の当主小野寺稙道は16世紀前半頃に交通の要衝にある沼館城に本拠を移し、稲庭城には弟である小野寺晴道を配しました(稙道の父親である小野寺泰道が15世紀に本拠を沼館城に遷したとの説もあります)。稙道と輝道の代が最大版図とされ北は豊島郡(現在の秋田県河辺郡※河辺郡は秋田市に合併し消滅)、南は村山郡の一部(現在の山形県最上郡真室川町)までを支配下に入れました。基本的に一次資料が極端に少ない為、稲庭城がどうなったのかは不詳で、文禄5年(1596)に最上家の侵攻を受け稲庭城が落城したとの話がある一方、惣無事令が発令されている以上、このような戦いがある可能性は極めて低く誤伝と思われます。
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