吉田城(横手市平鹿町)

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概要・歴史・観光・見所
吉田城(横手市平鹿町)概要: 案内板によると「吉田城跡は、戦国時代平鹿・雄勝地方を支配した小野寺景道が築城したと伝えられる。その後、小野寺陳道が継承したが、慶長6年(1601)ごろ小野寺氏の改易とともに廃城になった。この城跡は、ほぼ方形で、周囲に土塁と水掘がめぐらされており、指定面積14577平方メートルである。土塁は東西120メートル・南北100メートル、基底約6メートル、上幅約3メートル、高さ約2メートルで、その外周を幅約6〜10メートルの水掘が囲んでいる。土塁北西部隅には花見崎とよばれ、北東隅には三吉神社・稲荷神社がある。城跡に南接して西法寺があり、北方約500メートルに馬場跡及び馬水飲場・馬洗場と称される場所がある。東方にも鍛冶屋敷の呼称が残っている。この城跡は、県内に残る数少ない平城跡として貴重な遺構である。」とあります。

吉田城は、小野寺家13代当主小野寺景道(輝道)が永禄年間(1558〜1570年)に鮭延氏出身の側室より生まれた次男・小野寺義道に家督を譲って隠居した際に隠居城として築いたのが始まりとされます。景道(輝道)は慶長2年(1597)に死去、その後は末子である吉田孫市(陳道)が吉田城の城主に就任し、兄である義道を良く助けました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、小野寺家は西軍に与した事から、東軍に与した最上家と対立、孫市(陳道)は手勢1千5百を率いて吉田城に立て籠もり、最上勢3千の猛攻に耐え忍んでいます。しかし、徳川家康の命により一応の和睦が成立し開城、慶長6年(1601)に小野寺氏の改易が言い渡されています。孫市(陳道)は南部家を頼り落ち延び、2人の兄は石見国津和野に流罪となっています。

慶長7年(1602)に佐竹義宣が久保田藩に入封すると家臣である茂木監物治良が吉田城に配されています。茂木氏は鎌倉幕府の御家人だった家柄で、その後は国人領主として一定の勢力を維持したものの戦国時代に佐竹家に協力するようになり、天正18年(1590)には事実上の重臣となり茂木監物治良は肥前名護屋にも従軍しています。元和元年(1615)に一国一城令が発令されると茂木氏は久保田藩で城郭として認められた3城の内のひとつ横手城に移り吉田城は廃城となっています。吉田城は中世から江戸時代初期の平城として貴重な事から昭和55年(1980)に秋田県指定史跡に指定されています。

吉田城:写真

吉田城
[付近地図:横手市平鹿町上吉田]・ [横手市:上吉田集落]
吉田城 吉田城 吉田城 吉田城


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