黒沢城(大仙市土川)概要: 天正8年頃(1592)、黒沢城は案内板よると「土川地区は、角館の戸沢氏の支配下にあった。豊臣秀吉の命により、戸沢氏35城のすべてを破却させられた。その中に黒沢城があった。「月の出羽路」には、戸沢上総介光広の旧館跡としている。宝泉寺領を含めた今泉村境の山に至る広大な城域であったと推定される。」とあります。現在主郭部分には石造の祠が鎮座しているそうです。
伝承によると黒沢城は戸沢家18代当主戸沢盛安の隠居城で、ある時、鷹狩していた最中に夕立にあい、とある民家に雨宿りした際、その家の娘と恋仲となり、申松が生まれたとされ家臣である楢岡豊前の計らいで母子は東光坊で保護されていたそうです。盛安は天正18年(1590)の小田原の役の最中に病死、跡を継いだ弟である戸沢光盛は天正20年(1592)の朝鮮の役で肥前名護屋城に向かう途中の播磨国姫路(兵庫県姫路市)で死去し断絶の危機に直面しました。そこで、申松を戸沢家に迎え入れ20代目当主戸沢政盛となったと伝えられています。
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