三浦館(大仙市内小友)概要: 案内板によると「三浦治部少輔政重居住、東西30間、南北50間。文化12年(1813)の秋田風土記に石高190石とある。館前の名の起こりは、三浦の館に由来があるといわれている。」とあります。周囲に遺構らしきものは見当たらず、小友川が堀の役目をしていた平城だったようです。要害堅固な城というよりは石高からいっても大きな屋敷程度だったのかも知れません。
三浦氏の祖は鎌倉幕府の有力御家人で十三人の合議制の一人に数えられた三浦義澄とされ、建暦3年(1213)の和田合戦で敗北後は没落し、後裔は相模国に住していたそうです。戦国時代に三浦政重が出羽最上家に仕官したものの、天正年間(1573〜1593年)に敵対していた小野寺家の家臣となり190石が安堵され当地に三浦館を設けています。三浦政重は優秀な人物だったらしく、天正15年(1587)の最上家との「有屋峠合戦」で功を挙げ、隣接する戸沢家とも交流がありました。慶長6年(1601)に小野寺家が改易になると帰農し、慶長8年(1603)に周辺で一揆が発生すると久保田藩主となった佐竹家に協力し佐竹東家の当主佐竹義堅から感状を賜っています。
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