岩谷館(由利本荘市)概要: 岩谷館は芋川流域にあり、背後に亀田に抜ける折渡峠があるなど交通の要所で、中世は岩屋氏が支配していました。案内板によると「戦国時代、由利郡を支配した武将が十二人おりこれを由利十二頭あるいは由利十二党と呼んでおります。この十二頭の中の一人信州(長野県)から由利に入った岩屋氏がおりました。岩屋氏は大内町に居住したたのは今から約440年位前(天文年間)といわれてれております。後方の山頂が古館城の跡で最初の城主は大井能登守とされ、後に岩屋能登守朝繁と名乗った知名度の高い武将であった。 大内町教育委員会」とあります。本丸、二の丸跡があり山麓には朝繁の供養塔(墓)が安置されています。
岩屋氏も他の由利十二頭と同様に正確な出自は不詳で、一般的な解釈としては信濃国出身の小笠原家や大井家の一族と目されています。由利郡の入部時期も諸説ありますが、軍記物の「由利十二頭記」を頼れば応永元年(1394)や応仁元年(1467)という事になります。又、岩屋氏の菩提寺である永伝寺は応永12年(1405)に開かれたとの由緒をもっています。
入部から戦国時代までの一次資料は無く不詳、戦国時代から江戸時代初期にかけては後裔が所有していた岩屋家文書61通(秋田県指定有形文化財)などが残されている事から断片的に知る事が出来ます。特に岩屋朝盛は庄内地方の国人領主である土佐林禅棟と懇意にしていたらしく永禄12年(1569)に禅棟が矢島氏との戦いに援軍を求めています。これは、矢島氏が仁賀保氏領に侵攻したのに対し禅棟が仁賀保氏側に与したもので、三者の関係性が窺えます。禅棟が元亀2年(1571)に大宝寺義氏に攻められ討死し、天正11年(1583)に東禅寺氏永が義氏を暗殺すると、岩屋朝盛は氏永に接近し天正13年(1585)には父親を名代として謁見に臨み、その後も氏永と朝盛は書状の遣り取りを複数交換し蜜月な関係が窺えます。天正15年(1587)に最上家が庄内地方を介入するようになると最上家との遣り取りが多くなり、天正16年(1588)に東禅寺氏永が十五里ヶ原の戦いで大宝寺・本庄連合軍に敗退し討死し最上軍が庄内地方から一掃されると大宝寺氏に従っています。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きにより岩屋能登守宛で「出羽国油利郡内岩屋村八百四拾五石七斗三升、平釘村四拾五石四斗五升、合八百九拾壱石壱斗八升事」の所領安堵状が発布され豊臣政権下での生き残りを果たしています。その後、由利十二頭は由利五人衆に集約され、岩屋氏のその一人として伏見城の作事や朝鮮の役の軍役を負担しています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍方の最上家に助力したと思われますが、詳細は不詳、結果的には独立した領主としては認められず最上家家臣として2千4百石が安堵されています。元和8年(1622)に御家騒動により最上家が改易になると以前親交があったとされる秋田実季に仕え、さらに一族諸流が久保田藩佐竹家に仕えています。
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