白華城(秋田市豊岩)概要: 案内板によると「 白華城は標高約60メートルに築かれた平山城で、大手、摺手、屋敷跡、厩跡、空堀などからなる中世の城跡である。築城は戦国時代、湊安東氏の一族である安東義仁と伝えられ、周辺の豊巻、石田坂一帯を支配していたとされている。永禄10年(1567)、豊島城主畠山玄藩の奇襲で落城したが、同12年(1569)安東実季が奪還した。慶長7年(1602)、安東実季の常陸国宍戸(茨城県友部町)に国替えになるまで、湊安東氏の支城として続いていた。」とあります。実際行ってみると入り口は分かるものの、民家の敷地や山林の中を通っていかなければならないので結構大変です。土塁や郭、空掘などは比較的分かりやすいと思います。
白華城は室町時代の文安4年(1447)に安東義仁によって築かれたのが始まりとされます。安東義仁の詳細は不詳ですが、湊安東氏一族と考えられ、応永2年(1395)に津軽の下国安藤盛季の弟である安藤鹿季が秋田に下向したのに関係があるかも知れません。一方、安藤鹿季の事象は17世紀に制作された「秋田家系図」による事から不確実の要素が強く、南北朝時代に既に男鹿半島に土着していた安倍氏や安藤氏、安東氏が南下したとも考えられます。湊安東氏は現在の土崎港を本拠とした為、雄物川舟運を掌握する上で雄物川と岩見川が合流する水運の要衝に一族を配したと思われます。
その後、太郎義賢、岩見佐季定、安東備中守季林が城主を歴任しましたが、永禄10年(1567)に畠山玄藩重村(豊島休心)に急襲され白華城は落城、当時の城主だった季林は安東氏を頼り落ち延びたそうです。玄藩重村は湊安東氏の家臣である事から安東一族と思われる季林を攻める必要があったのかは判りませんが永禄12年(1569)に安東実季が白華城を奪還したそうです。ただし、安東実季は天正4年(1576)から万治2年(1660)の人物の為に誤伝と思われ、実際は檜山安東氏に転じた季林を重村が粛清し、檜山安東氏の棟梁である安東愛季が白華城を奪還したと思われます。一方、天正17年(1589)に安東茂季の嫡男である豊島道季が叛乱を起こし安東実季を檜山城まで追いつめてる史実(湊合戦)がある為、この合戦の一端に白華城攻めがあったのかも知れません。何れにしても一次資料に白華城攻防戦についての記述が無い為よくわかりません。
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