小野城(湯沢市泉沢)

  秋田県WEB観光案内所(ホーム)秋田・城郭探訪>小野城(湯沢市泉沢)

概要・歴史・観光・見所
小野城(湯沢市泉沢)概要: 小野城は案内板によると「小野城は、小野寺氏の入部にともない院内の押さえとして、慶長・文永(1249〜1274)の頃、姉崎六郎によって築城されたと伝えれれる。文禄2年(1593)8月、最上氏が攻め入ったとき、小野寺の臣町田長右衛門が士民300余人を連れ立って城に篭もり応戦したが、敢えなく落城したといわれる。雄物川左岸、西から伸びる屋根先端標高210メートル、比高90メートル、屋根鞍部を深さ2メートル、1.5メートル、15メートルの三条の堀切とこれに連続する竪掘によって切断した連郭性の平坦部をもつ。南と東は急峻な崖で、南は雄物川に落ち込む自然の要害となっており、北は100メートル×40メートルの広さをもち、これに続く自然地形を利用した10数面の平坦面をもっている。」とあります。

小野城の築城年には諸説有、主に文治元年(1185)に姉崎四郎右衛門、又は建長・文永年間(1249〜1274年)に姉崎六郎が築いたという2説が有力とされます。姉崎家は領主である小野寺家の有力家臣とされる氏族で、小野寺家と共に雄勝郡に入部したと推定されています。小野寺家は文治5年(1189)の奥州合戦の功により雄勝郡の地頭職に就任したものの、実際入部したのは13世紀中頃の小野寺経道の代という説が有力な為、建長・文永年間(1249〜1274年)姉崎六郎築城説の方が説得力がある印象を受けます。

姉崎氏がその後も小野城の城主だったのかは判りませんが、城の配置から居城や城下町を町割りするには適していない事から戦時に利用する砦的な役割を持っていたと思われます。小野寺氏は戦国時代末期頃、山本郡(現在の仙北郡)、平鹿郡、雄勝郡の3郡を領していたものの、天正18年(1590)の太閤検地により山本郡の一部が仙北諸将、雄勝郡が最上領となった為、窮地に追い込まれ特に最上家には積年の恨みがありました。文禄2年(1593)に最上義光が雄勝郡に兵を送り、小野寺氏は小野城に家臣である町田長右衛門を配し、領民300余名が立て籠もったものの奮戦むなしく翌日には落城したと伝えられています。ただし、文禄2年(1593)は豊臣秀吉が発布した惣無事令がある為、私闘は禁じられているはずで、実際に起こったならば小野寺家は改易になっていると思われますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いに至るまで存続している事から小野城攻防戦が行われていたのならば天正18年(1590)の奥州仕置き以前と思われます。小野城は中世の山城として貴重な事から城域37090uが平成12年(2000)に湯沢市指定史跡に指定されています。

小野城:写真

小野城
[付近地図:湯沢市雄勝町]・[小野小町]


※ 相談や質問は大変失礼ですが、メールのみとさせていただきます。 回答によって不都合や不利益をこうむっても当サイトは一切責任を負いません。又、回答を直接的(当サイトの名前を使って)に交渉や請求の手段とすることはご遠慮くださるようお願い申し上げます。 予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。尚、「秋田県WEB観光案内所」は「秋田の歴史」、「羽州街道をゆく」、「秋田市歴史地図」、「あきた滝300」、「パンフレット」、「案内板」、「関係HP」、「秋田のお寺」、「秋田の神社と神々」、「歴史道路報告書」、「佐竹氏と久保田城」、「秋田の温泉」を参考にさせていただいています。