下村館(由利本荘市東由利)

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概要・歴史・観光・見所
下村館(岩舘)概要: 下村館は由利地方を支配した由利十二頭の1人下村氏の居城です。下村氏については明確な資料が少なく、軍記物とされる「由利十二頭記」に頼れば、初代下村小笠原殿(下村彦次郎宗長?)が応仁元年(1467)に由利郡に下向したとされる為、下村館は概ね応仁年間(1467〜1469年)に築かれたと推察されています(「由利十二頭記」の原本は無く写本が8種類以上あり中には応永元年とするものもあります)。応仁2年(1468)に菩提寺となる蔵立寺を創建した事になっていますが、蔵立寺は数度の火災に被災しており後年に由緒を制作した際、「由利十二頭記」の下村氏が入部したとされる応仁元年(1467)に合わせた印象を受けます。隣接する玉米氏とは良好な関係を保ったものの石沢氏とは対立関係にあったらしく元亀3年(1572)には戦になったとされます。ただし、写本の中には記載が無かったものもあり詳細は判りません。

石高についても不詳で、由利郡は概ね5万石から6万石あったとされる為、由利十二頭で頭割りしても5千石弱程度あってもおかしくないのですが、実際は最大勢力だった矢島氏、仁賀保氏、赤尾津氏は精々4千程度とされ、天正18年(1590)の奥州仕置きの結果、当時の当主と思われる下村彦次郎は175石が安堵されたのみでした。当時の大名は1万石で250名前後の兵力を動員出来た事を考えれば計算上下村氏は数人程度の兵力となり、とても合戦が行える家とは考えにくく領主というよりは中級武士程度だった事になります。しかし、軍記物である「奥羽永慶軍記」には天正10年(1582)に庄内の大名である武藤義氏の一翼を下村彦次郎が根城館で撃退したとの記述もあり、信憑性は微妙なもののある程度の兵力だった事が窺えます。又、下村館(岩舘)や根城館の規模からも到底175石だったとは考えられず、大きな不満があった可能性があります。こちらも、未確認である文禄4年(1595)に改易となり、慶長3年(1598)にそれを不服とし一揆を起こし豊臣方の命を受けた赤尾津氏、鮎川氏、潟保氏に鎮圧されたそうです。下村氏の後裔は江戸時代に久保田藩の家老を歴任した梅津家の家臣となっています。

下村館(岩舘)は高台などに築城したのではありませんが石沢川が大きく蛇行している為、三方が川に囲まれ堀の役割を果たしていました。城がある蔵集落は本荘街道川大内街道の結束点である交通の要所で下村氏はこの地域を押さえる為にも重要視していた事が分かります。下村氏は関が原の戦いで小野寺氏寄りだったと云われ改易され下村館は破却されました。現在館跡は平地より一段高い所に諏訪神社が鎮座し、その境内には推定年齢300年以上と言われるイチョウがあり秋田県指定天然記念物になっています。

下村館:写真

下村館
[付近地図:由利本荘市]・ [由利本荘市:蔵]


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