八柏城(横手市大雄)

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概要・歴史・観光・見所
八柏城(横手市大雄)概要: 案内板によると「八柏は、鎌倉時代の初期雄勝郡の地頭として入部した。下野国小野寺城主小野寺経道(1節には重道)累代の家臣である落合十郎の末裔とされ、1460年に八柏に入城して八柏大和守道友を名乗ったのが初めとされる。八柏城の規模は、「雪の出羽路」によると方70間から80間あったとされ、八幡神社の南へ県道を中心として140m四方に亘っていたと考えられます。城跡があったと思われる奥山芳秋宅等数件の家の敷地からは、濠や井戸や館の跡をうかがわせる土台石等が発見されております。・・・(後略)」とあります。

三浦景泰の家臣だった落合十郎は13世紀半ば頃に、小野寺家と共に雄勝郡に入部したとされます。三浦景泰は三浦氏が宝治元年(1247)に発生した宝治合戦で鎌倉幕府執権北条氏と安達氏に敗れ没落した為、姉の夫である小野寺道業を頼り小野寺姓を賜り、小野寺経道として稲庭に入部したとの伝承が伝えられています。特に姉崎六郎、関口出羽、落合十郎の3名が小野寺三功臣と呼ばれ、幕府からの追討を逃れ経道を稲庭まで導いたとも云われています。

その後、落合家は要衝である沼館城に配されていましたが、寛正元年(1460)に小野寺長道の弟とされる小野寺道春が沼館城の城主になった事から八柏の地に遷され、地名に因み「八柏」姓に改称し当時の当主は八柏大和守道友と名乗ったとされます。戦国時代の城主である八柏大和守道為は知将として知られ、天文15年(1546)に主である小野寺稙道が内部抗争により謀殺されると、後継ぎで幼少だった小野寺景道を保護し庄内地方の大名である大宝寺氏に庇護を求めました。景道が成長すると道友は大宝寺氏や由利諸将の協力を得て居城である横手城を奪還し領内の統一を果たし、天正14年(1586)の有屋峠合戦では圧倒的な軍勢を誇る最上勢を策略により勝利に導いたとされます。最上家は雄勝郡侵攻の最大の障壁が八柏大和守道為であると悟り、道為が最上家に内通したとの偽情報を流し、それを信じた小野寺義道は家臣に命じて暗殺、八柏大和守道為を失った小野寺家は最上家の猛攻にさらされ雄勝郡を失っています。(有屋峠合戦など現在において一次資料では明確になっていない事から実際行われたかどうかは不詳)

その後、小野寺氏は慶長5年(1600)の関が原の戦いで西軍に味方した為、改易となり八柏城も破棄されました。現在は宅地化され、ほとんど遺構らしきものは見当たらず、城跡地とされる場所には八幡神社が鎮座しています。

八柏城:写真

八柏城
[付近地図:横手市大雄八柏]


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