天寧寺(仙北市角館町)概要: 萬松山天寧寺の創建は室町時代の文政4年(1447)に芦名盛信(芦名11代当主)が傑堂能勝(室町時代の高僧、楠木正の子供)を招いて開山したのが始まりとされます。芦名家は戦国時代、黒川城(現在の鶴ヶ城)を本拠に会津一帯90万石を支配したの大大名に発展し、天寧寺はその菩提寺として寺運が隆盛、最盛期には末寺33カ寺、僧堂12堂を擁しました。しかし、芦名盛隆の頃から衰微し、跡を継いだ亀若丸が幼少時に死去した事で佐竹義重の次男、芦名義広を養子として迎えます。天正17年(1589)、摺上原の戦いで伊達政宗に敗れると義広は生家の佐竹家を頼り常陸に逃れ天寧寺もその兵火により大きな被害を受け、庇護者を失い衰微しました。
慶長5年(1600)、関が原の戦いで佐竹氏は東西中立を保った為、久保田藩へ移封、兄である佐竹義宣に従った芦名義勝(盛隆→盛重)は角館城1万6千石が与えられ、現在の角館町の原型となる町割りを行います。寛永元年(1624)、義勝は鉄心快牛(横手市:正平寺7世)を招き旧領である天寧寺(福島県会津若松市)を本寺とし名称を同じ天寧寺を開山しています。天寧寺は補陀寺(秋田市)、最禅寺(湯沢市)と共に秋田在三カ寺に数えられ芦名家からは寺領90石が安堵、末寺8カ寺を擁するなど再び寺運が隆盛しました。承応2年(1653)、3代千鶴丸が天寧寺に参拝に訪れた際、踏み石から転落し死去した事で芦名家は断絶、天寧寺は庇護者を失いましたが地元住民によって維持されました。
天寧寺本堂は明治18年(1885)に焼失し、昭和44年(1969)に建替えられたもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入り、間口8間、正面1間、唐破風向拝付き、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。天寧寺山門は寛政3年(1791)に建てられたもので、切妻、銅板葺、一間一戸、薬医門、角館町で最も古い山門建築として貴重な事から仙北市(旧角館町)指定文化財に指定されています。境内には芦名家3代を含め一族の墓域は仙北市(旧角館町)指定史跡に指定されています。又、境内には畑駒岳、須藤半五郎などの墓碑や千鶴丸が転落した踏み石を台座にした青銅製大仏(千鶴丸の供養の為に寄進、鋳物師佐藤佐治兵衛作、仙北市指定文化財)などが残り当時を偲ぶことが出来ます。又、境内がある角館町は現在でも古い町並みが残り国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
山号:萬松山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦牟尼仏。
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