(4) 平城
秋田県内には平城の数が圧倒的に数が少ないです。平地面に築かれる為、戦略的には不利と考えられたいたのかも知れません。戦国末期から近世に掛けて見られるようになってきます。その頃になってきますと、兵農分離が進み城下町に家臣を住ませるといった行為が必然となります。経済的な面なども考慮され、より利便性の高い所が選ばれるようになったようです。土崎にある湊城や、前郷にある滝沢城などはその典型的な存在といえます。戦略的には川、海、沼などの自然の地形をうまく利用しながら、水堀を何重かに廻し、城下町にも枡形や鍵形など設けるなどの工夫が見られます。
戦国時代、全国的に見れば大大名が育ち多くの家臣団が形勢される中、秋田県の領主達は安東氏が推定10万石程度(豊臣政権下で、領地安堵されたのは5万2千石)を筆頭に小領主達が争いを繰り広げ、家臣団を形成するというよりは国人領主の集合体といった形態をもっていました。その為、平野部の国人領主達は必然的に平城を築くことになります。特に県南部にその傾向が見られ、吉田城(秋田県指定史跡)や植田城、鍋倉城、深堀城などがあります。
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